『 マスメディアの弊害 』 (…マスメディア マスコミュニケーション…) マスメディアの弊害…が 顕著になってきているような気がする。 いわゆる大航海時代や 産業革命がもたらしてきた 『 グローバリゼーション 』や『 マスメディア 』の台頭が 個人の認識限界を超えた情報処理や現実対応を 個人に迫ってくることからくる 個人のストレスの増大と それに適応しきれない者達の疎外感(孤独と不安)の増大を 加速させてゆく マスメディア化の時代背景の中で 不特定多数への無差別な発信情報が増えてゆくと それを受信する側に 無関心・無視・傍観 あきらめetc.が 増えてゆくように見える ひとは 自分に関係の無い状況は 見なくなる 近年は個人名であたかも「あなたに…」と特定して声かけしているような 不特定多数への働きかけ方という策略も 増えてきている 他者と自分との間に『 関係 』が あるのか ないのか 一方通行(ストーカー的 監禁的)の関係を 強いられつづけてゆくと コミュニケーションや 本来の自己主張 あるいは 自己防衛の感性さえ 萎縮 荒廃して 退化?していってしまうのかもしれない (いわゆる「電気檻の中で飼われつづけた犬」や 監禁虐待されつづけた人間 あるいはオーム真理教などのようなマインドコントロールシステム 等 ) 『 一方的な関係 』の強要 『 相互承諾…了解・納得 』=『 コンセンサス 』の欠落or不足 個人にとっての「 必要 」は 本来「本人」が判断すべきものだろうと思う しかし「共同社会」の中では ともすると 多数決や常識論のような『 便宜的な現実対処法 』を迫られる場面も多い 「マスメディアマインドコントロール」によって 『 多数決絶対主義 』になってゆくような近代社会の中で 疎外・淘汰されてゆく『 マイノリティー 』の視点を どのように 捉えてゆくかが いま 問われて始めていると思う。 『マスコミュニケーション=バーチャルコミュニケーション』 と 『リアルコミュニケーション?』 …と 対置的に言い換えてみるとわかりやすいかもしれない??? 「言語や表現・現象」によってもたらされる「伝達情報」は 本来「現実」としては 物理的な五感(+α)情報に過ぎない。 しかし そこから喚起される行動や認識は それぞれの個体の心身に刻まれた過去の体験的情報によって さまざまに展開されてゆくように見える。 つまり 個体内部に 単純な物理情報を 処理し 体内に蓄積された 心身的情報や エネルギー等と 関連させて 新たな現象としての行動や表現を発現させるシステムが あると見ることもできるだろうと思う (アメリカの小学校に行って日本語で「みんな集まって」と言っても キョトンするだけだろう…し 「Ebrybody Come on!」と 言えば集まってくるかもしれない) 「言語や表現」による「コミュニケーション」とは 発信側と受信側との双方向的なシステムの共有の必然=前提に支えられて 始めて 実現可能なものだと言えるだろう (いわゆる「馬の耳に念仏」「豚に真珠」「猫に小判」の現実も多い) ものも 情報も マスメディアが撒き散らした多くのものが ゴミの山となり 毒と化し 環境汚染をもたらし 人々を蝕んでゆく現実も多いのではないだろうか? 大量生産 大量流通 大量消費の 近代化社会の中で いまなお『 必要としているところに 必要なものが届かない 』のは 何故なのか それをしっかりと見極めないまま やたらただ「大量生産」や「大量消費」を必然とする『経済システム』 を 加速化しつづけてゆく 暴走とさえ見える「 モダンタイムス 」は 危険ではないか と 俺には思われる…のだが? いつ どこに 誰のために 誰に なにを なぜ どれだけ 生産供給すればいいのか そうした 目的や 具体的な指針をしっかりと見通した生産や流通供給の確認が 必要な時代になってきているような気がする。 |