『 自立 』について
06.04.19 水
(「自立」と「共生・協調・共同」と「依存・共依存」)
ひとは 独りでひとになるわけではない
しかし ある程度成長した後は
死ぬまで 独りで 生きてゆくことも できるかもしれない
独りで 生きてゆくか?
誰彼と「 共同・協調・共生 」して 生きてゆくか?
そうした確認が 無意味に思えるほど
『人間だらけの環境』の中に
俺たちは 生きているのかもしれない
誰も居ない世界に 自分ひとりだけだったら 自分はどんなふうに暮してゆくのだろう
…と 考えてみると わかりやすい
そういう状況は案外『 身近に起こり得る 』と言うことを
多くの人が 忘れてしまって 生きているように 思われる。
( cf.学校の帰り道で 自宅マンションの15階の廊下で 子供が
『 人間に襲われて殺される 』 …時代・社会・環境
そういう環境・世界に生きていることを
多くの人が知らないわけでも ないだろう
オトナでも 同じこと 人間がそばにいても 安心できるかどうかが
わからなくなってしまった世の中に みんな生きているのでは? )
『 自分以外の人間 』 が
「 居ない世界 」 と 「 居る世界 」と
どっちが 『 安心 』 あるいは 『 不安 』 なのだろう
なぜ 多くのひとたちは 成長した後も 他の人間といっしょに
暮しているのだろう
『 自立 』 …って なんだろう ?
『 コミュニケーション 』について
06.04.19 水
( 信頼のおける人間関係の見分け方・作り方 ? )
信頼できる人間って どんな人なんだろう?
1度や2度逢っただけで 信用できるわけでもない
長年隣り合っていたからといっても 信用できるとも限らない
家族同士だって 殺しあってる
親子だって 殺しあってる
先生が生徒を殺す
そういうことが 現実としてある時代・社会
自分を 信用して欲しいというひとは 多い
自分を 信用しないで欲しいと言うひとは 少ない
あなたは どっちの人を 信用するだろうか?
どうやって それを 決めるのだろうか?
同じ人間なんていない ひとりひとり みんなそれぞれに どこかちがう個人
どこが同じなのか 確かめ合わなければ わかるはずがない
確かめ合うために なにをすればいいのか
そういうことさえ それぞれのひとによって さまざまにちがっている時代・社会
自分のことは自分が語らなければ 他者にはわかりにくい
実際 ひとは 自分の知ってることしか知らない
自分が見聞きし 感じ 思い 体験したことしか 語れないのだろうと思う
そうしたことを伝え合うことが コミュニケーションなのだろうと思う
俺は まず 自分が見聞きしたことを歪めないで 相手に伝えられるようになりたいと思う
そのために 歪めないように 目を磨きたい
しっかりと 聞き取れるように 耳を澄ましたい
感性を 麻痺させないようにしたい
神経を 弛緩させないようにしたい
あわてて 見落とさないようにしたい
急いで 早とちりしないようにした
忙しさに 追われないようにしたい
誤解しないようにしたい
思い込み 決め付け 独善に注意したい
無知を忘れないようにしたい
無力を 忘れないようにしたい
孤独のさみしさ ひとが居るありがたさを
忘れないようにしたい
無知 非力 弱さ もろさ いいかげんさ 支離滅裂
人類?人間の『 未熟 』を 忘れないようにしたい
誰ひとり 『 いつも大丈夫 』な 者なんか居ない
疲れ 弱ったときは いたわり 癒し合えるほうがいい
困ったときは 助け合えるほうがいい
どんなことでも 本音を正直に 伝え合える方がいい
同じ人間同士に 遠慮も差別も 要らない
ただ 仲良く活かしあっていける方がいい
俺はそう思う
そのために 大切なものが
『 コミュニケーション 』だと 思う。
老若男女 おとなと子供 親子 妻夫 先生生徒 師匠弟子 できるひと できないひと
健常者障害者 無知賢明 …???
さまざまな『ちがい』があっても
みんな「明日をも知れない命」を抱えて
「いま生きている」…『 同じ人間の個人』
前時代的因習差別『 権威主義・封建感性 競争意識 』を捨てて
「独善的自立」=「共依存」ぐらい「自覚」できるように なって
周囲に人間が居る世界に 感謝しながら…
仲良く 学びあい 育てあっていけるほうがいいと 俺は思う
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