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2007年09月05日 01時33分07秒  骨折って 勝ち組になり 反省し???

2007年08月31日14:44 叱られて…2 正直13 柔道部2 留年時代2 高校(1970)のころ 7
akiu 雲 「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 7



「 留年時代 」2


。。。。。。。。。。

そういえば…夏の合宿で…

1日に3人…骨折させてしまったことを
思い出してしまった…(ヤベぇーだっちゃ。…苦笑)

。。。。。。。。。。
柔道部に 復帰したのは
1970年…夏休みに入ってからだったと思う。
すぐに夏休みの合宿に参加した。

あれは「 当たり稽古 」の時だった。
・・・・・・・・・・
「当たり稽古」とは…

ひとりが「 台 」として出て そこに
たしか1分間ずつ10人だったと思うが…
つぎからつぎと 相手だけ変わっていく練習だ。
台になると…10人の 元気な相手と 次々と…
10分間 通しで 組むわけだから
後半はバテて へとへとになる。
そういう稽古だった。
・・・・・・・・・・
俺が「 台 」になったとき…
ひとつの目標を決めて 稽古に臨んでいた。

「 いくら投げられてもいいから
 ひとりずつから かならず 1本は取ること。」…と

最初の2〜3人は なんとかなったが
…だんだん きびしくなり
最後の3〜4人の時は もう 無我夢中だった。
反射的に動いて 相手と絡み合ってるだけ
みたいな感じになっていった。

それでも 技を かけ続けた
いわゆる めくらめっぽう…というやつだった。

その結果…

終わったあと すぐは わからなかったが…
なんだか痛いからと 医者に行った者の 後日報告。

手の指の骨折1名 足の指の骨折1名
手首から少し上の腕の骨の1本が折れてた者1名

計3名…骨折でした。
その他 あざや 傷は 多数いたことは 
言うまでもない…だっちゃ♪

ちなみに 俺自身は …無傷… でした。


いまごろ言っても遅いが …
…大反省だっちゃ♪

 m(_ _)m…平に陳謝

試合でも… 関節技で 何人か折りました…

 m(_ _)m…平に陳謝



。。。。。。。。。。

2007年09月05日 01時23分47秒  得意技 決めてみたいな あの娘なら♪

めも:mixi日記より
2007年08月31日08:46 叱られて…2 正直12 留年時代1 高校(1970)のころ 6
akiu 雲「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 6


「 留年時代 」1


。。。。。。。。。。。

たしか4月の6日 始業式の前日あたりに…
電話で「 もう一度 考え直さないか 」と言ってきたのを無視して…

やっと 俺の 留年が決まった。


。。。。。。。。。。

「 柔道部復帰 」


と云う訳で めでたく 2度目の1年生に なった。

さすがに 俺は 気分を入れ替えて 目標を立てた。
腹筋運動や 腕立てを 毎朝の日課にしたりして
こころ新たに また 学校に通い始めたのだ。

ひとつ年下の 同級生とも 割と早く馴染めた。

そのころ…
別の高校へ行った H雄に出逢って 話す機会があった。
H雄とは 小中学校が一緒で いろんな話をした仲だった。

彼は 公立高校を落ちて 私立に通っていて
親に 余計な負担をかけてしまって 申し訳ないから
自分を鍛えるために 牛乳配達をして
空手にも 通い始めたと言う…。

それを聞いた俺は さっそく 牛乳配達を始めた。…(苦笑)

さすがに 2年目となると
授業もあまり 怖くなくなって いたし…
まめに 予習して テストも怖くは なくなった。

ホント あれだけ落ち込んでたのが嘘のように
かなり単純に 回復していた。 …ようだと思う。

1学期の終わり 高校総体後には
部の3年生が引退 新役員が決まり

…待ってました…とばかりに 俺は…復帰…した。(笑)

。。。。。。。。。。
キャプテンはGG 奴は中学の時は 水泳部だった。
基礎体力が できていたから伸びも早かった。
運動センスは いまいち だったが…(大笑)
☆ 負けない奴 ☆ …だった

副キャプテンはOK 彼も高校から柔道を始めた口だ。
ねばり強い「受けのしつこさ・いやらしさ」が身上だった(笑)

そして ☆校柔道部の「 ☆星☆ 」??? 
ポイントゲッターが あのKくんだった。
彼は「 選監 (選手監督) 」だった。
 
この人選は正解だろうと思えた。
(Kをキャプテンにしなかった???こと…)
Kをキャプテンにしてたら…?
部が ハチャメチャになるのは 目に見えていた。
彼は そういうヤツ…だった。
( 紙面が許せば… あるいは 俺の 気が向けば
 彼の「 逸話 」も 書いてみたいのだが…?  )
・・・・・・・・
ともあれ また 大好きな柔道
そして 柔道部の仲間との 毎日が復活した。

さすがに この年代での 一年近い ブランクは大きかった。

みんな この1年で 強くなっていた。
1年目の時は 負ける気がしなかったGGに投げられた。
Kの内股にも 磨きがかかり…
なにより 重心の安定感が まったくちがっていた。
いわゆる 腰が座ってきた。 …というヤツだ。
俺は といえば…
去年 3年生のキャプテンを倒していた「 大外刈り 」も
「 腰砕け 」という体たらくだった…。
 ・・・・・・・・・・
俺は へなへなだった。(笑)
柔道… も 1から出直し。 …でも

「運動センス抜群」の俺はすぐレギュラーに返り咲いた!

…↑大嘘です。(笑)
  俺は変形柔道 and いやらしくて しつこい
  くねくねして… 見苦しい

  → なにやっても「 変 」

  …と みんなに言われて いました。

  でも…部員が少なかった…ので
  すぐレギュラーになれた♪♪♪ …だっちゃ♪

ここからは自慢話!になるけど ご勘弁をm(_ _)m(爆)

たぶん復帰してすぐのころ… 公式試合で
県内でも有力校の ○北高校との試合で…
団体戦だから 学校は負けたけど…

俺は 勝ったのだ!(自慢 自慢 自慢♪)
(もちろん寝技→腕がらみ十字固め一本勝ち!)
柔道…興味ないひとは…ゴメンm(_ _)m

まぁ 俺の自慢→自尊心なんて
こんなことで支えられるもんだっちゃ。(笑)

そんなことで やる気を引き出しながら練習に励んでいった。


。。。。。。。。。。

そういえば…夏の合宿で…

3人…骨折させてしまったことを
いま 思い出してしまった。(…苦笑)



。。。。。。。。。。

2007年09月02日 16時25分27秒  やさしさが こころのきずに ちょとしみる♪

めも:mixi日記より
2007年08月30日22:22 叱られて…2 正直11 不登校2 高校(1969)のころ 5
akiu 雲「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 5



「 不登校 」2


。。。。。。。。。。。


  ・・・・・・・・・・

「 お前は ただ 弱いだけなんだよ! 」

 …帰り際に Gが いらだったように きつく言った。

Gは柔道部の仲間だった。
俺が 学校に 行かなくなったのを心配して
彼と同じクラスで 俺もよく話していた○樹と一緒に
様子を見に… 来てくれたのだった。
  ‥‥‥
俺は なにも言わずに 見送った。

なにも言えなかった。反論できなかった。
…そのとおり…だと 思った。

。。。。。。。。。。

柔道部を辞めたとき…
Bが「ホントーに 辞めるのか?」と
心配して 教室に訪ねてきてくれたことも あった。

。。。。。。。。。。

みんな やさしかった。
だから 俺も ガンバロウと思った。
なんとかしたいと思った。

「 いいさ一年ぐらい。もう一度…やりなおそう 」と…思った。

でも… 学校には 行けなかった。

家にいても 布団かぶって寝てる日が多かったような気がする。
そのほかの時間は 日記を書いていたかもしれない。

ただ わけがわからなかった。
疚(やま)しかったし 恥ずかしかったし 苦しかったし
つらい…だけ だったような気がする。

。。。。。。。。。。

思い出せない …停止した時間…

。。。。。。。。。。

「 記憶の闇 」があるから 光が見える。
ひとは 多くのことを 忘れることによって
記憶を 鮮明にしてゆく
魂の深海に沈んだ 現実のカケラ

わたしという砂漠の 考古学

大風に 足跡消えて 迷い道

人生が変わる …分かれ道に立つ
今日もまた あしたは見えない
いつも そうだったと思う

ただ ときどき それを 忘れているだけ。



。。。。。。。。。。↓につづく

2007年09月02日 16時19分00秒  こざかしい エリートたちの 保身術

めも:mixi日記より
2007年08月30日22:22 叱られて…2 正直11 不登校2 高校(1969)のころ 5
akiu 雲「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 5



「 不登校 」2



↑からつづき

。。。。。。。。。。。

いつ頃だったかは 覚えていないが
3学期に入り…学校から 呼び出された。

赤点が 5教科あるという。
( 8教科以上…あるはずなのに? )
地理Bと 現代国語 …は
レポートを出せば 合格点にしてくれるという。

次は…
赤点が3教科だから追試験を 受けに来いと電話がきた。
(レポートを出さなかったのに 赤点は3教科に減っていた。)

行かなかった。

すると 追追試験が あるからと… また電話が来た。
それも 行かなかった。
もう一回ぐらい追試の電話があって…

今度は また 担任の K国語教師に 呼び出された。
もう3月の末か 4月の初めごろだったと思う。

。。。。。。。。。。

担任:「どうして進級したくないんだ?」

俺 :「赤点8教科 あったはずです。」

担任:「担当の先生たちが なくしてくれたんだよ」

俺 :「後半 ほとんど 授業受けてないし なにも勉強してない 」

担任:「お前が やり直そうという気持ちは よくわかる
    …でもな よく考えて見ろよ…
    もう一度 1年生からやり直すよりも
    2年生に進級して 1年生でやり残した分も
    頑張ってゆく方が お前にとっては
    … きびしい試練 … だとは 思わないか ? 」

国語科の教員室でのやりとり… もう夜になっていたと思う。
いろいろ 長々と話したあげくの 最後の彼の「 説得 」だった。

俺の意思は ハッキリ伝わっていたのだろうと思う。
…その時までは 俺が 進級するか しないかは
「 俺の問題 」だと思っていた。

しかし そのとき初めて…
それが 彼…担任教師ばかりか
「 学校=☆校 」…全体の問題だったのだと 感じた。

この学校には 成績不振による留年生は ありえないのだった。
いまだったら 精神科の医者にストレス障害かなにかの
診断をさせて 病欠による出席日数不足にでもするのだろう…が
(まぁ 事実そのようなもの だったのだろうけれど…)

それまでの留年生は 入院や はっきりしたノイローゼなどの…
病気による長期欠席者しか いなかったのかもしれない。
少なくとも「 成績がいくら悪くても 進級させていた 」
…ことだけは 確かなようだった。

あとで柔道部に入ったNに 聞いた話だと
追試や 追追試で 点の取れなかった 彼が
母親と一緒に「 進級 」を頼みに行ったとき… 教師は

「あなたの息子さんより 成績が上なのに
 自分から留年すると言っている生徒もいるんですよ!」
…と「 恩着せがましく 」言っていた とのことだった。
 でも彼は …進級させて もらった。

これらを どう受け取るかまで 触れない。

ただ 事実こんなふうだったのは 確かだった。

そのあと たしか4月の6日 始業式の前日当たりに…
電話で「 もう一度 考え直さないか 」と言ってきたのを無視して…

やっと 俺の 留年が決まった。


。。。。。。。。。。

このときから オトナには なりたくない …と
はっきり 意識するようになったんだろうと思う。


。。。。。。。。。。

2007年09月02日 16時14分09秒  呑み込まれ こころ渦巻く 不登校♪

めも:mixi日記より
2007年08月30日10:50 叱られて…2 正直10 不登校1 高校(1969)のころ 4
akiu 雲「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 4


「 不登校 」1


こうしてみていると 高校の時も…
俺は あんがい元気だった。

いつごろから どんなふうに どのくらいの時期
うつっぽくなって
「 不登校 → 引きこもり 」になったんだろう???

。。。。。。。。。。

「 混乱 」



やはり 学校全体の 雰囲気…環境が 肌に合ってなかった。
…そう言うほかに ないのかもしれない。

30年後 卒業した「 秋○高校 」が
「庭先で ニワトリを 育てている」ようなものだとしたら…
「 ☆校 」は … 大規模養鶏場 …のようだった。

要するに…居心地が悪かっただけなのかもしれない。

。。。。。。。。。。

直接の悩みは 成績だった。
2学期の中間テストの段階で
13課目?ぐらいのうち 8課目が 赤点だった。
学年末の追試を 受けられるのは 3科目以内だった。

そして… 教師たちは 日頃から
「 赤点 クリアーできなかったら 落第(留年)だぞ!」
…と 脅していた。

俺は 留年を覚悟した。
しかし やはり つらかった。恥ずかしかった。
疚(やま)しかった。

そのころは
自分が そこそこ他者より「 できる 」ことに
ある価値観 「 かっこよさ 」を 見出すように
なっていたのだろうと思う。
それが ボロボロに傷ついていったのだろうと思う。

…ともあれ 秋の終わりごろには 不登校になっていた。
柔道部は???

そういえば 柔道部を 辞めたんだった!!

。。。。。。。。。

たしか 古川市(仙台の北 30キロほどの街)での
「 新人戦 」の時だった。
俺たちは 応援だったが…
試合が終わって 帰るときに 監督(T大先輩)が…
ぼそっと「 来年はお前が キャプテンだからな… 」
…と言ったのだ。

詳しくは 覚えていないが…
その一言が「 辞めたきっかけ 」だったことは 確かだ。
要するに… 責任のある立場 …は
もうこりごり…だったのだろうと思う。
ましてや成績(→留年???)で すっかり
自信をなくしていた時だ。

なにも辞めることはないだろうと いまは思うが…
俺は いつも →その後ずっと →いまでも(?)
そんな風な 変(…ふつう?)なやつだった。 

柔道部を辞めたことも
不登校(うつ?)を加速してしまったのだろう。

秋ごろと言えば 制服廃止闘争のクライマックスも
そのころだった。
全校集会があって(報道陣もやってきていた)
学校側と 生徒の「 対話集会 」で
生徒側(多数派)の要求が通り「制服廃止」が
決まったり…してた。



。。。。。。。。。。↓につづく

2007年09月02日 15時58分07秒  重すぎる空気は毒と 不登校♪

めも:mixi日記より
2007年08月30日10:50 叱られて…2 正直10 不登校1 高校(1969)のころ 4
akiu 雲「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 4


「 不登校 」1


。。。。。。。。。。↑からのつづき



おなじころ 同じ中学だったS君が 学校に来なくなった。

。。。。。。。。。。

やはり同じ中学のA君が
「 S君の様子を見に行こう 」というので…
心配して ふたりで 訪ねていったことがあった。

(A君は 物静かで 考え深げで やさしいやつだった。) 

S君と俺は 同じ中学だったが
その時までは そんなに 親しくはなかった。
ゆっくり話したのは その時が初めてぐらい
だったかもしれない。

…S君は 予想に反して「 元気 」だった。

 俺たちは S君の部屋で 3人で 少し話した。

S:「 高校なんか 行ったってしょうがないよ。
    俺は 家で 自分のやり方で
   自由に 好きなことを勉強して
    [ 大学受験資格検定 ]を取って
    大学に行くことにしたよ。   」

  …と 言った。

  俺もA君も あっけにとられてしまった。
  S君は… ドイツ語の勉強をしていた。
  語学をやるなら「シュリーマンのやり方」がいいと言い。
  実際に自分がやっているテープを聴かせてくれて…
  大学受験の外国語はドイツ語で受けるという。
  絵を描いているとも言い 見せてくれたし
  なにやら画集を見せたり…
  いまは 絵画評論家の 誰それの理論に
  共感しているとか…
  …そんな話をしていた。

  彼は 確信に満ちているように見えた。
 「 俺とは 雲泥の差だ… 」と 俺は 感じ…
  ますます いまの自分が 情けなく思えてしまった。

  帰り道で そんな思いを A君に話し…
 「…Aくんは いつも 落ち着いていて
   冷静にひとの話が聞けて いいよなぁ…」

 …俺が言うと A君が…

 「 Sくんも 雲くんも
  自分の考えを ちゃんと話せるから…
  うらやましいと… ボクは思うよ。
  ボクは 自分の言いたいことを
  君たちのように ひとに話すことが
  なかなかできないんだよ…。 」

  …と さみしそうに言っていたのが
   いまも忘れられない。



。。。。。。。。。。

2007年08月31日 22時15分29秒  ゴールまで いけばできるね ひとやすみ♪

めも:mixi日記より
2007年08月29日16:20 叱られて…2 正直9 強歩大会 高校(1969)のころ 3
akiu 雲「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 3


「 強歩大会 」1



。。。。。。。。。。

柔道部は あんがい 気のいい脳天気な連中が多かった。

それで だいぶ救われていたのかもしれないと思う。

。。。。。。。。。。
それでも やっぱり 成績は落ちつづけていった。 
そして それとともに こころも沈んでいったんだろうと思う。

。。。。。。。。。。。

「 同級生K 」


そういえば ☆校にも「 強歩大会 」があった。

「アル中高校生」に書いた 数年前(2002年)の「 強歩大会 」
…の時も 思い出したのだが
( キット ☆校出身の 校長か教師の発案で 始めたんだろうな…と )
☆校の時は 42.195?キロたぶん…
フルマラソンと同じ距離だった。

不登校や中退したとはいえ なにしろ 一年生を二回
2年生の12月まで…totalで 2年と9ヶ月もいたのだから
行事の思い出は 普通ぐらいには あるもんだ。(笑)
強歩大会には 2回は参加したような気がする。

たしか8区間ぐらいに分かれていて
途中にチェックポイントがあり
そこを 一定時間内に通過できない者は
車で回収(リタイヤ)されてしまうシステムだった。

なにしろエリート校である。
学校も大きい 全校生徒1000人以上いたのかもしれない。
リタイアどころか 上位狙いは やまほどいる。
多くの運動部は 部のメンツをかけて走る。
しかし柔道部が サッカー・陸上・野球・バスケetc.に
勝てる訳がない(?)

そこで柔道部の伝統は…いかに回収されずに
完走(…完歩)するか…というものだった。
要するに 後ろから1番を競う???…つまり 
「 リタイアしないで… ビリ争い 」みたいな感じだった。

当然 俺も 柔道着を着て
先輩や仲間と だらだらと歩いた。

しかし 中学でも一緒の柔道部だった Kは…
伝統に反して 俺たちを尻目に 駈け去っていった。

。。。。。。。。。。

彼は 中学の時 いろんな面で 俺の師匠みたいな奴だった。
ある意味 俺が☆校に入れるほど 成績がよかったのは
Kのおかげだったといっても いいのかもしれない。

Kの家は やっぱり(?)母子家庭だった。
当然…新聞配達もしていた。(笑)
彼は 伝書鳩を飼っていて 俺も飼っていた。
1年から柔道部で一緒で 2年の時同じクラスになった。
俺は とりたてて 家で勉強や宿題をする奴じゃなかった。
しかし あいつはちがっていた。
やたら 勉強する奴だったのだ。

Kは まるで
いまの子供たちが ゲームのクリアに夢中になるように
算数や英語の 予習の 進み具合を 俺に話しかけ
気が付いたら 俺もゲーム感覚で 一緒に走っていた…
そんな感じだった。

勉強も スポーツも 遊びも しごと(?)も…
Kは なんでも …一生懸命… やるやつだった。

しかし これはいまの 感想。

当時の 俺の印象では…
がんばりやというより
おおらかで どこかチョット抜けてて 脳天気なやつ
要するに … 天然系 …
…そんな感じだった。

。。。。。。。。。。

Kは スタートで走り出したが…
俺は 先輩たちに従った。
学校から 第1ポイントの 青葉城址まで…
だらだらと 歩いていった。
…6〜7キロくらいだったろうか?…
俺も さすがに…飽きてきた。
…やっぱ! 走ろう… Kに追いつこう…と
第1ポイントから 走り出した。

。。。。。。。。。。↓につづく

2007年08月31日 22時06分40秒  止まらないいつもナチュラルハイの俺♪

めも:mixi日記より
2007年08月29日16:20 叱られて…2 正直9 強歩大会 高校(1969)のころ 3
akiu 雲「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 3


「 強歩大会 」1


↑からのつづき
。。。。。。。。。。

 
俺は 走りに 走った…
残り30キロ以上は あったと思うが…
とにかく Kに追いつこうと走った。
(…太宰治の「走れメロス」を思い出していた!!
  …かどうかは さだかではない?…が 笑 )

そして Kを 見つけた。

ゴールまで あと1キロほどの所で Kは…歩いていた。 
・・・・・・・
あの時 はじめて「 ナチュラル・ハイ 」?らしきものを
 体験した。

Kを見つけた俺は …とうぜん
止まって一緒に歩こうと思った。
しかし 止まれないのだ。
俺の「思い・意思」とは 関係なく
俺の「 足 」は 走り続けた。

歩いているKの脇を あれよあれよという間に
通り過ぎて…
そのまま ゴールまで 走り続けてしまった。
・・・・・・・・・
ゴールは 秋保温泉の旅館「 岩○屋 」
(たしか経営者が ☆校卒業生…らしかった)
ゴールしたら「 芋煮汁 」を喰って
温泉に入って休憩できた。
・・・・・・・・・
このときも Kのおかげで…
予期せずして(「 想定外 」???…笑)
たしか 70位ぐらいに 入れて…
そりゃぁ やっぱり うれしかった♪ …だっちゃ。

とうぜん Kは
「 おめぇ〜 それはねぇだろう!! ともだちとして… 」
みたいな顔 してたけど …(笑)



。。。。。。。。。。

2007年08月31日 21時58分25秒  笑顔なら 辛くも無いね 猛稽古♪

めも:mixi日記より
2007年08月29日07:57 叱られて…2 正直8 H先輩 高校(1969)のころ 2
akiu 雲「人生が変わる瞬間(とき)」高校のころ 2


。。。。。。。。。。

成績は どんどん落ちていった。

それでも まだ 学校には 行っていた。
 …救い…は 好きな柔道や 柔道部の
「 気のおけない仲間たち 」だったとも 思う。


。。。。。。。。。。

「 鬼の特訓 」 …H先輩

最初の1年生のころ 柔道部に H先輩が来ていた。
H先輩の代は 県内でも強かったらしい。
たしか 個人戦で 国体まで行った人もいたと思う。
(Hさんは 予備校に通っている浪人生だったので…
 夏休み過ぎには 受験勉強に専念したらしく 来なくなった。)

Hさんは 1年生に 猛特訓を 課した。

柔道初心者が多かった一年生に つきっきりで
柔道の全ての技や 基礎的なことから教えてくれたが
2・3年生とは別メニューで 何で俺たちだけ…と
H先輩を「…鬼!」と思うほど ハッキリ言って 正直 きつかった。
とにかく 徹底的に 猛練習 …させられた…。

でも 俺は なぜか …うれしかった… 面白かった。

Hさんが やさしかったから だろうと思う。

H先輩は いつも ニコニコしていた。
笑いながら 俺たちが…泣きそうになるまで… 練習させた。
俺たちに 徹底的に猛練習 …させて…くれた。

特訓は 一学期から夏休みぐらいまで だったろうと思うが
そこで 俺は 柔道が もっと好きになった。

特に「もう…自分の限界」みたいに… 泣きたくなるような
全力で …一生懸命…やる 練習が
以前より もっと 好きになったような 気がする。

。。。。。。。。。。

いま こうして思い返しながら 考えてみると
痛いこと つらいこと 苦しいこと できないことが…
そして それを無理やり …やらされる… ことが

イコール=「 いやなこと 」なのでは ないと思う。

その状況に 救いがあるかないかの 感覚には…
なにか「 別な要因 」が はたらいているような気がする。 

(それは… その状況に対する
「 信頼感 」あるいは「 安心感 」
 …のようなもの ではないかと いまは 思える。)

…このとき 同じ学校の中で…俺は

一方では 教室で …先生や 同級生たちに
もう一方では 柔道部で …先輩や 中間たちに

なにかを …求められていた… ような気がする

前者… あの学校 全体が 求めていたものは
( 先生も生徒も… そして 地域の 狭い世間も… )
いわゆる学業成績や 知識・教養?・人格?などの…

「 ☆校生 らしさ 」=「 エリート高校生らしさ 」
 …だったような気がする。

後者…は …すこし ちがっていたような気がする。

もちろん ☆校に入った奴らだ
そうした「 エリート臭さ 」もあったろうが
そこは しょせん みんな まだ 16〜7 の高校生。
柔道部は あんがい 気のいい脳天気な連中が多かった。

それで だいぶ救われていたのかもしれないと思う。

。。。。。。。。。。
それでも やっぱり 成績は落ちつづけていった。 
そして…
それとともに こころも沈んでいったんだろうと思う。


。。。。。。。。。。。

2007年08月31日 10時20分18秒  やさしさを 勘違いする おとなたち?♪

めも:mixi日記より
2007年08月28日19:36 叱られて…2 正直7 高校(1969)のころ 1
akiu 雲


『人生が変わる瞬間(とき)』1



2007日テレ24hテレビの テーマは…

『人生が変わる瞬間(とき)』…だったらしい。 

( 次の日ワイドショーで…
  欽ちゃんの66歳70キロマラソン …のダイジェストを観た。 )

俺にとって「人生が変わった瞬間(とき)」は?

やっぱり 高校生(1969-1971)の時だったと思う。
(俺の人生? 紆余曲折…?
   けっこう しょっちゅう 変わってるけど…ネ …笑)

高校のころ 叱られた思い出は…
。。。。。。。。。。

いま思うと …まともに… 叱られたことは 
ほとんど無かったような気もする。

中島みゆきが 唄っている。(cf.「タクシードライバー」)

♪…なぁ〜にをしてもぉ〜 叱ぁってくれるぅ〜
        ひとも もぉ〜 い〜ぃないぃ〜 ♪


ひとは 何のために 子供たちや他人を 叱りつけるのだろう?

腹がたつから…?
自分が 困るから…?
意味も無く…?

叱る ≠ 怒る だと思う。
叱るとは 相手のことを考えたしなめる事だろうと思う。
好きだからこそ… 愛があるからこそ 叱るのだろうと思う。
( 愛の形も さまざまでは あるのだろうけれども )

俺は いわゆる 非行少年だったことが無い。
島田伸介が「やんちゃ」という言葉で語る 若者らしさ。
大人たちや 社会への反抗。
(cf.映画「理由なき反抗」ジェームスディーン主演)
そういう意味では
いま流行りの オタクに近い性格だったろうと思う。

ただし 前にも書いたように
周りを困らせる「変な奴」だったことは 確かなようだ。(苦笑)


。。。。。。。。。。

1969年 高校入学の年は いわゆる「70年安保」とか
「大学紛争」とか… で 騒がしい時代だった。 
子供向けのまんが本の 特集にさえ
「ベトナム戦争」の写真が載っていたりした。

入学した年 高校も「制服廃止闘争」とかで騒いでいた。
授業を潰して 討論になったり
県内から集まった 一部の大人びた優等生たちが
社会や世界や政治 文学やら思想やら哲学やら芸術やら…
意気盛んに …討論したりしていた。
中学まで 本屋に行くことさえ ほとんど無かった そのころの俺には
…まったく ちんぷんかんぷん…だった。
そんな中で…俺は 思いっきり 緊張してしまったんだと思う。

学校の雰囲気も 先生も 授業も 休み時間も
いままでの学校のイメージとは まったく違っていた。

いわば 野良の馬が 競馬場に連れて行かれたようなものだ。
ましてや 俺は 野生の暴れ馬っぽい性格じゃない。
ただ 場違いな雰囲気に圧倒されて…
オロオロと うろたえるほかなかった。

先生どころか 同級生にも…
あれやこれやと 叱られ たしな(窘?嗜?)められる事が多かった。

しかし ときどき それらの言葉に…
「やさしさが 感じられない」…そんな気がしたことも多かった。

。。。。。。。。。。 ↓につづく

2007年08月31日 10時12分48秒  子は育つ 野良の猫でも おおらかに♪

めも:mixi日記より
2007年08月28日19:36 叱られて…2 正直7 高校(1969)のころ 1
akiu 雲 『人生が変わる瞬間(とき)』1


↑からのつづき

。。。。。。。。。。

「アルコール依存症」の学習会で…

B 「ビィー・マザー(be mother)」…と
D 「ドゥー・マザー(do mother)」…という 言葉を習った。

Bは「…それで いぃんじゃない」の 受け容れる型の 母親。
Dは「…しなさい! …するな!」の 指示・禁止型の 母親。

( be は ジョンレノンの「レット・イト・ビー( Let it be)」」の…be…)
  ・・・・・・・・・

Dのタイプの母親(=親?)に育てられた子が
「AC(アダルトチュルドレン)」になり易い。 …との事だった。

俺は たぶんBタイプの親に育てられた…と思う。
しかし「 …あの学校… 」は… まるごと
「 Dタイプ世界 ⇒ do 型社会 」だったような気がする。

。。。。。。。。。。

先生や 同級生に…
あれやこれやと 叱られ 窘(? たしな)められて…

一気に いろんなことを 考え「…させられ…」て
俺は 混乱してしまった。…ような 気がする。

いままで のほほんと信じて 立っていた足元の地面が…
土砂崩れで 一気に崩れ去ったような感じだった。

…こうなると 授業も 学習も あったものではなかった。
いつも 卑屈に…なにかに追われ 脅かされているような感じ…

学校にいても 家にいても 友達といても…いつも
いわゆる なにもかも「うわのそら」という感じだった。

もちろん 学業?⇒成績は どんどん落ちていった。

でも まだ 学校には 行っていた。
救いは 好きな柔道や 柔道部の 気のおけない仲間たちだった。


。。。。。。。。。。

2007年08月31日 09時50分54秒  誰かしら 孤独の部屋を 見つめてる

めも:mixi日記より
2007年08月28日11:22 詩…日記 05/11/18 akiu 雲


「日記」      05.11.18金→07.08.28火


15歳の春…日記を書き始めてから 37年半。
毎日とはいかなかったけど
捨てもせずに たまっている
読み返すことも ほとんどない

写真もおなじ
アルバム整理したのは
長男がうまれてからの5〜6年のあいだだけだった
埃にまみれカビが生えてゆく 大切なもの

作品もおなじ
記念写真ひとつ撮ってやるやさしさも 
ゆとりも 忘れた暮らしの中で

大切なものが 汚れて 壊れて
風化してゆく暮らし


磨こうとして 傷つけてしまう 未熟 不器用
片付けようとして 散らかしてゆく 支離滅裂


HPを始めて丸2年
IT…インフォメーションテクノロジー?の波に乗って
Iさんからもらったパソコンを活かしたくて
アル中と鬱との中で しがみついてきた蜘蛛の糸

天国に行きたいわけじゃない

この世の現実の 生身の人間と 出会いたいだけ
嘘も気兼ねもない糸電話を 誰かとつないで
無邪気に おしゃべりがしたいだけ

過去も 現在も 未来も
やわらかなゆめのキャンバスに乗せて
誰かと一緒に味わう ひとときのあったかい時間が
欲しかっただけ


2年目の記念にIDを増やしてしまった
「あきう野良」
野良猫の野良 野良仕事 野良人の野良
「人形の家」(byイプセン?)の…「ノラ」

わすれられたのだろうか
飾られて ほこりにまみれた 部屋の片隅に
ひっそりと 棚に並んで うごかない人形たち
捨てられもせず 見向きもされず

地震や災害でも起きない限り
 ・・・・・・・
ただじっとしている 置物たち



人形と 俺の無言の 語り愛




。。。。。。。。。。

2007年08月30日 13時55分58秒  忘れない 無邪気正直 おおらかさ♪

めも:お返事
to: アルチュー 07/08/30木
件名

お酒は ほどほどに…ネ(笑)Re: あーるぽじしょん vol.19

メッセージ
。。。。。。。。。。

アルチューさん。こんにちは。だっちゃ!
       メッセ−ジありがとう♪

> 雲さんの日記を読むと、すっかり忘れ去っていた自分の過去を
  思い起こすことしばしばです。

 みんな はじめの頃は あんがい同じような思いを抱いて
 人生に船出するんだろうと思うだっちゃ…ネ。

 行き着いた島に 棲んでいるうちに
 そこの常識に染まって わかり合えなくなってしまったり
 するのかもしれませんね?♪

 幼少児期や 思春期の 心や言葉…感性?は
 世界中の みんなの共通言語ではないか?
 などと思って います。

 忘れてしまいたくないですよネ…だっちゃ!


。。。。。。。。。。

>アルチューさん:早く親になんなせぇー♪(親心笑)

 最近の晩婚傾向には問題あると思いますよホント♪
 おらは15歳成人説…だっちゃ♪
 (cf.ガンジー13で結婚 俺の爺16才 織田信長?)
 子供は「若さと元気で育てる」べきだと思うんです。

 世代交代速くすると 若年層(支える世代)
 …の比率が ねずみ算的に増えると思いませんか?

 もちろん周辺社会のフォロー体制の整備が大切。
 …だと思うけど…ネ♪

 少子化高齢化社会の解消は世代交代を速くすること!
 だと思いませんか?

 俺は 28才 33才 35才で 子供作ったけど…
 経験上…遅かったと思う。
 体力曲線の限界値は35〜6歳だと思うんですよ。
 下のふたりできた頃
 ぎっくり腰2回やっちゃいました。

 遅くなるほど 子供がかわいそうな気がしますよ♪
 二十代の時 親の心配するようになったら可哀想!?

 
 案ずるより 生むが安し …だっちゃ♪(おおらか笑) 

2007年08月30日 13時14分44秒  迷うから 教えないでね こざかしさ♪

2007年08月28日07:23 叱られて…2 正直6 中学校のころ 2
akiu 雲



「進学相談」



中3の たぶん 秋頃だったろうと思う。

進学相談のとき…
。。。。。。。。。。

先生:「第一志望は ☆校でいいわね?」

俺 :「…? いや ○校です。」

先生:「え? なんで?」

俺 :「うちのすぐ近くだし 兄貴も行ってるので…」

 …そのころ ☆校は 仙台ではエリート校だった。
  ○校は 学力ランキング的には
  …2ランク下みたいな感じだった。

先生:「また始まった! あなたは どうしてそう ひねくれてるの!」

  先生は すでに … 感情的 …に なっている。

・・・・・・・・・・・・・・
  俺は 深く考えてもいなかった。
  夏休み前に 中学の柔道部の練習も 終わってしまっていたので
  夏休みに入ると 当然のことのように…
  兄貴の高校(○校)の柔道部に 練習しに行ったりしていた。

  うちが○校に 近かったので
  兄貴の柔道部の友達も よく遊びに来ていたし
  なにより そこには…
  重量級個人戦で2年連続 県優勝しているTさんがいた。

  新聞に載った「内股1本…秒殺…写真」のTさんがいる。
  その○校の 柔道部に入りたかったのだ。

  Tさんは バイク通学が禁止されていたので…
  毎日 うちにバイクを置いて 歩いて学校に行っていたから
  よく知っていたし とても面白い先輩だった。 
  その先輩と 毎日練習して 強くなりたかった。

・・・・・・・・・・・

先生:「あなたのような「ひねくれ者」は
    ☆校に行って… 少し 揉まれた方が いいのよ!」

  この言葉は あれ以来 忘れられずに 耳に残っている。

  その後 両親や先生との話の中で 結局…
  俺は ☆校を受験することになった。

。。。。。。。。。。。。

  そのときの 俺の思い… 「志望校を 変えた理由」は…
  …たぶん…
  小賢しい「 計算高さ 」だったような気がする。

 「 ☆校に入った方が かっこいいかもしれない。」

  自分の「正直な思いや納得」よりも
  世間受けする「 価値観・評価 」を選ぶ。

  そうした小賢しさが 芽生え始めたのは…
  このころからだったのかもしれないと いま 思う。

  俺は 少しずつ …世間の「小賢しさ」「ずるさ」… に
  … 染まり始めて … いたのかもしれない。

。。。。。。。。。。。

2007年08月29日 23時35分59秒  牛耳られ 耳をそむける 子供たち♪

めも:mixi日記より
2007年08月27日02:07 叱られて…2 正直5 中学校のころ 1
akiu 雲


中学校の思い出1

(中学のころは「叱られた思い出」…
      結構 ありそうだっちゃ♪)


。。。。。。。。。。

まずは 中学1年生の時。

遅刻の常習者数人 …黒板の前に立たされて…
みんなの前で 思いっきり往復ビンタされた。

俺も その中のひとりだった。
唇から ちょっと血が垂れたのを 手で拭った記憶がある。
(ちょっとカッコいいかな…なんて思ったような気がする。…)

。。。。。。。。。。

2年生の時 生徒委員会の副議長になって
委員会の 司会をやった事があった。

前に立って 担当からの連絡事項等は すぐ終わって
…自由質疑。

俺   :「みなさん なにか質疑の議題…ありますか?」

委員たち:「・・・・・・・・」

俺   : 再度… 「…ありませんか?」

委員たち:「・・・・・・・・」

俺   :「じゃぁ 議題がないようなので
               今日は …これで終わります。 」

…とサッサと 切り上げようとしたら
 後ろで見ていた先生が あわてて出てきて…

 「だめだよ!」…と 叱られた。

そして先生は 「みんな 何か無いのか?」…と 仕切りだした。

…俺は なんだか とっても気まずかった。…

それ以来 自分が司会する当番の日は 委員会をサボって…
委員会室の見える裏山から 見てて 終わるまで待ってから
部活の 柔道をしに行ってた。

。。。。。。。。。。

3年生になったばかりの頃…

俺が 「修学旅行に 行かない」と言ったら…
担任の 女の先生が…

先生:「どうしていかないの? 理由を聞かせて!」

俺 :「つまんなそうだし… お金がもったいないから… 」

先生:「あなた学級委員長じゃないの! なんでなの!」
    …と 即 叱られた。
   (…ちゃんと 理由言ったのに…。。。)

でも 行きたくなかったから あくまでも ごねていたら…
先生が一旦 「わかったわ!」と その日は帰してくれた。

しかし 次の日の 昼休み。
今度は 2年生の時の担任の 男の先生に呼び出された。

彼は 禅寺の住職で 生徒にも慕われ
俺のことも 面白がってくれてる先生だった。
話の内容は 忘れてしまったが…

結局 俺は 修学旅行に 行かされた。
(まぁ…金を出したのは当然 親なんだけど…)

。。。。。。。。。。↓につづく

2007年08月29日 23時27分49秒  争いを なくしたいから 手が出せず?

memo:mixi日記より
2007年08月27日02:07 叱られて…2 正直5 中学校のころ 1
akiu 雲 中学校の思い出1


↑からのつづき
。。。。。。。。。。

やはり3年生の時…

ある日の放課後 柔道場で 着替えようとしていたら…
窓から サッカー部の連中が からかってきた。

俺は 気にもしないでいたが…
同級生のひとりが 注意した。
すると 向こうの血の気の多い奴が…
「なんだよー」みたいに 道場に入ってきた。
他のサッカー部の奴も入ってきて にらみ合いになった。
( …双方たぶん3〜4人ずつ… )

すると キッカケのふたりが ケンカを始めた。

俺は…「ありゃぁ〜 どうしたらいいんだろう?」
…という感じで 黙って見ていた。

サッカー部の連中も 柔道部の連中も…
なんとなく「一触即発」って感じ…だった。

でも… しばらくして なんとなく?
ふたりのケンカが終わって サッカー部は出て行った。

・・・・・・・・・・・・
そのことが 顧問の先生に知れて 俺たちは呼び出された。

   「なんで やらなかったんだ!?」

    …と 叱られたのだ。

    しょっぱなから 俺は あっけに取られてしまった。
    俺はてっきり「やったこと」を叱られるのだろうと思っていた。
    ところが…「やらなかった」事で 叱られてしまったのだ。

   「お前らなら あいつら なんてことないだろう…?
    すこし 懲らしめて
    おとなしくさせてくれれば 助かったのに…。」

    …だと。

( 確かにサッカー部の連中は よく問題起こしてたけど…
  柔道部の連中の方が 強そうではあった。 …が )

 他の3人は みんなで俺を見て…「でも…コイツが…」と言ってる。

 俺は キャプテンだった。 その俺が やらないので
 みんなも 手を出していいかどうか 迷っていたらしい。

 俺は 柔道はやってたけど…
 ケンカしたことは ほとんど無かったし…
 なにより 争い事は 好きじゃなかった。

 …根っからの「平和主義者」だった。…(笑)

。。。。。。。。。。


この頃は まだ 自分が変だとは ホントに気付いてなかった。

そのころまでは まだ 正直だったような気がする。


。。。。。。。。。。

2007年08月28日 22時18分00秒  思い出の ほこりを払う ゆめ日記♪

メモ:mixi日記より
2007年08月26日08:03 叱られて…2 正直4 母 小学校のころ 3
akiu 雲


「母泣かせ」


俺の 母ちゃんは まだ生きている。(笑…ありがたい♪)
1929年生まれだから …今年の11月で 78歳になる。

母ちゃんに 叱られた思い出…ねぇ…???

俺がちいさい頃の母は 病弱だったようで
しょっちゅう入院していたみたいだった。
元気な時も 保険のセールスなどやっていて
昼間 うちに居ることは少なかったような 気がする。

家に居る時も がみがみと 叱ったりする人ではなかったし
実家が 和菓子屋さんだったので
時々 手作りのおやつを 作ってくれたりもした。

でも 小学校の通信票の「親からの連絡」の欄には

「どう扱ったらいいのか 困っています」

…と 書いてある。

母の方では かなり 手を焼いていたことが窺える。 

いまになって すこし 申し訳ないとは 思っている。

。。。。。。。。。。

あのころ(1960年代)の仙台はまだ ちいさな街だった。
いま見ると うちは仙台駅から4〜5キロほどしかないのだが
裏側は 雑木林や森 街側の通学路の周辺も 田んぼが拡がっていた。
住宅地ができ始め 新しい住宅が増え始めたばかりの印象だった。
うちも もとは近所の農家の林か畑だった所を 造成区画したような敷地だった。
同級生の家の職業もさまざまだったし 転校生も多かったように思う。
前にも書いたように 学区内に孤児院と養護施設があり
そこから来ている子どもたちも多かった。

いま思えば そうした いろんな境遇の子供たちとの ふれあいの中で…
いつも いろんな事を感じ 考えさせられていたような気がする。

時代も 敗戦後から高度成長期への転換期だった。

テレビでは ヤンマーディーゼルの宣伝が 元気よく流れ
「名犬ラッシー」「ライフルマン」「ディズニーランド」
「エド・サリヴァンショー」「ルーシーショー」etc.…
アメリカの人気番組が いっぱい放送されていた。

多様雑多 混沌とした時代 地域環境だったのかもしれない。

。。。。。。。。。 ↓につづく

2007年08月28日 22時14分24秒  それぞれの 思いを胸に 歩く道♪

2007年08月26日08:03 叱られて…2 正直4 母 小学校のころ 3
akiu 雲 「母泣かせ」



↑からのつづき

。。。。。。。。。

5年生のころ 東京から H君が転校してきた。

H君を 一目見て その違いに 驚いた。
真っ白い ふかふかのセーターを着ていたのだ(笑)

俺たちは 編み直しで いろんな色の入り混じったセーターを着ていた。
そのうえ 袖口のところは たいがい 
洟をこすったあとで ばりばりになっていた。 

H君の家に遊びに行って また驚いた。
家が洋風の新築で お母さんが奇麗な格好で 出迎えて…
突然2〜3人で訪ねたにもかかわらず…
紅茶の他に…全員の分のショートケーキが出てきたのだ。
(こういうのを…カルチャーショック…と言うのだろう… 笑)

同じ頃 I君という子も転校してきた。
俺は 彼と友達になった。
ある日 I君が…
「自転車ほしいな」と言った。
「ああ…そうだな」と 俺もうなずいた。
「じゃぁ…明日から新聞配達やろう」…とI君
「??? う… うん」思わず 俺は応えてしまった …が

明らかに 俺にはない 発想だった。
…自転車が欲しかったら 親に買ってもらう…
これが 当時の俺の 常識だった。
(後で知ったのだが I君の家はお父さんが居なかった。
 お母さんが働いていても 家計は楽ではなかったのだろう。)

いつだったか…
I君に「遊びに行こう」と 誘われて ついていったら
仙台駅まで行って「鳴子に行こう」と言われ
電車に乗って ふたりで 仙台から 50キロ以上はなれた
宮城県北部の 鳴子温泉まで 行ったことがある。
あの時も たぶん 放課後 そのまま 行ってしまったと思う。

温泉駅に着いて どこか 行くあてでも あるのかと思っていたら
温泉街を 端から端まで ぶらついて
だいぶ 暗くなりかけてからI君が「帰ろうか」と言うので
なんということもなく 帰ってきた。
そのとき なんとなくだが…
I君は お父さんに逢いに…
あるいは 探しに… 来たんじゃないか?…って 
思ったことを 覚えている。
・・・・・・・・・・
家に帰ったのは だいぶ遅い時間だったと思う。

叱られたかどうか???…は 覚えていないけど

自分の子が こんな感じだったら
俺でも… 悩んだり 叱ったりするだろうな…と いまは思う。

母に 叱られた思い出はないが… 泣かれた思い出がある。

。。。。。。。。。。↓につづく

2007年08月28日 21時58分33秒  変かしら 俺の常識 非常識♪

2007年08月26日08:03 叱られて…2 正直4 母 小学校のころ 3
akiu 雲 「母泣かせ」

↑からのつづき



。。。。。。。。。。

小学校の卒業式の朝だった。

母:「さあぁ 早く着替えなさい」

俺:「なんで?…」

母:「制服…そこにあるでしょう。」

俺:「このままでいいよ」

母:「だめよ…ちゃんと中学の制服 着なきゃ…」

…実は何日か前 友人達と話していたのだ。

・・・・・・・・・・・
A  :「おい 卒業式は中学の制服きるんだべ」

みんな:「そうだよ」

俺  :「なんで? まだ中学生じゃねぇーべ
     中学校の 入学式から 着るんだべ。」

みんな:「でも 去年は着てたよ」

俺  :「俺は 着ないよ」

みんな:「ホントだな!」

俺  :「…ああ」

・・・・・・・・・・・

…と そんなやり取りがあったのだ。

母と俺は しばらく押し問答をしていた。
すると 母が 泣き出した。
「お願いだから着ていって…」と 泣きながら 頼むのだ。

そのころの俺には わけがわからなかった。 

結局 俺は制服を着ていくことになった。
学校では 案の定 友達に 嘘つき呼ばわりされた。

なんとなく…気まずかったので 忘れられない。

。。。。。。。。。。


このころから 俺は なんとなく…
世間の常識感覚と 自分の常識感覚の ちがいに
戸惑うことが 多くなっていったような気がする。


。。。。。。。。。。

2007年08月28日 06時37分23秒  忘れ得ぬ 幼心の 物語

めも:mixi日記より
2007年08月25日00:27 叱られて…2 正直3 祖父 小学校のころ 2
akiu 雲

「 爺ちゃん 」

…小学校のころ…2


小5ぐらいの頃 学校で書いた 作文の中身を いまも覚えている。
(…たしか「大人への注文」とかいうテーマで
  学校から全国公募に出す作文に 選ばれたからだ。)

 内容は うろ覚えだが …そこに

「とうちゃんに 叱って欲しい。」

 …というようなことが書いてあった筈だ。
(それが面白かったから 選ばれたんだと思う。)

たしかに 子供の頃 両親に本気で怒られた記憶は ほとんどない。
両親とも「 気のいい 脳天気なひとたち 」で
一緒に居る時 楽しかった記憶はあっても 嫌な思い出は少ない。

ただ… 共稼ぎだったのでいつも家に居ないから …つまんない。
そんな感じの「両親への思い」だった。
「叱られたい」思いも 要はそうした「絡み」の少ない親への…
「もう少し かまって欲しい」⇒スキンシップ不足への
思い残しが 背景にあったのかもしれない。

子供とは面白いものだと思う。
奴らは 本来「ないものねだりの生き物」だろうと思う。
そのぐらい貪欲だからこそ 驚くほどの速さで
ぐんぐんと成長するのだろうと思う。

とうちゃんに 叱られたことがないから 叱られてみたい。
死んだことがないから 死んでみたい。
 ・・・・・・・・
当時の 俺は そんな風なことを考えてるガキだったと思う。
…狂人(キチガイ)になってみたいと思ったこともあった。… 
(40年後の今年 現実に 精神病院に入院しちゃったし♪…笑)

もちろん それは内面の「想い」の世界のなかの自分。

現実の自分は…

家では わけのわからない 困りものの次男坊。
外では 無口で ボサぁーっとした奴。
…そんな感じだった。

。。。。。。。。。。

ある時 田舎から泊まりに来ていた爺ちゃんに

…叱られたことが あった。

↓につづく

2007年08月28日 06時33分34秒  正直と 家訓迷信 鬼ごっこ♪

↑からのつづき 
2007年08月25日00:27 叱られて…2 正直3 祖父 小学校のころ 2
akiu 雲

「 爺ちゃん 」

…小学校のころ…2


。。。。。。。。。。

ある時 田舎から泊まりに来ていた爺ちゃんに

…叱られたことが あった。

爺ちゃんの名前は 正(まさし)といって

ふだんは とっても やさしかったのだが…

父の実家の界隈では 「鬼正」と言われているほど
怒ると怖い ひと …らしかった。

。。。。。。。。。。

 夜 …爺ちゃんが テレビを見ている隣で …俺は
    なにげなく 口笛を吹いた。

爺 :「 夜中に 口笛吹ぐもんでねぇ… 」
    爺ちゃんは ぼそっと言った。

俺 :「・・・・・」
   …と 俺は なにを思ったのか 事もあろうに 
   もう一度 聞こえよがしに 口笛を吹いたのだ。

爺 :「 クッ! くさま(キサマ)ぁー! 」
   … 当然 爺ちゃんは キレタ。

   爺ちゃんは 事故で片足を失くしていて
   いつも 松葉杖をついていた。

   それを振りかざして 俺を打ち据えようとしたのだ。
   もちろん 黙って殴られるわけにもいかないので  
   俺は さっと 身をかわして 逃げた。 

   こうなると もう収まりがつくはずがない。
   爺ちゃんは 片足で跳びはねながら…
   真っ赤な顔をして 追いかけてくる。
   まさに …赤鬼… 「赤鬼正」だった。

   さすがに 俺は …こりゃぁあまずいなぁ〜…と
   外へ飛び出して 自転車に乗って 脱走した …(笑)

   どこへ行くともなく 俺は走りに走った。
   なにを考えていたのか もう思い出せない
   …とにかく夜の道を 自転車で 遠くへ走った。

   たぶん塩釜のあたりまで 行ったと思う。
   だいぶ夜もふけて 人通りも少なくなった道端に
   座り込んで しばらくぼぉーとしていたが…
   とりあえず そろそろ みんな寝ちまっただろうと
   もと来た道を 引き返して 家に帰った。

   家に着いてみると まだ 灯りがついていた。

   まずいなぁ〜と思ったが 寒いし眠くなってきたしで…
   抜き足 差し足 …こっそりと家に入って
   誰も居ない 二階に上がり…
   押入れの布団の中にもぐりこんで 眠りについた。

 。。。。。。。。。。

   家の者達は 心配して ずっと探していたらしい。
   とにかく 押入れの中に隠れて寝ている俺を見つけて…
   安心してから みんな 床に就いたようだった。


…次の日…

 しこたま 叱られたのは いうまでもない。…だっちゃ!


 。。。。。。。。。。


…でも それ以来 父や親戚のひとたちに…
「…「鬼正」に逆らったのは オメェぐれぇなもんだべ…」
…と 語り草になり

そう言われるたびに 少し 誇らしい気がしたもんだっちゃ♪


あのころの俺も まだ…「 正直 」だったように思う…。

 。。。。。。。。。。

2007年08月26日 18時51分43秒  魅力の未 溶かしてしまう アルコール?

そういえば 親父に殴られた時も 爺さんがキレタ時も…
酒が入っていた… などと いまになって感慨深く…思う…。

メモ:mixi書き込みコメント→mixiアルチューさん
2007年08月19日22:24 雲

俺の場合は 放任親父で
高1まで怒られた記憶さえなかった。
高2への進学をやめて 留年すると言った時…
酔った親父に 初めて殴られた…けど
なんだか大きく強く見えていた親父が
小さく見えて 気が萎えてしまった記憶がある。
。。。。。。。

自分の子は 長男の時は4歳の時から…
(たぶん最初の子育てで 真剣だったから?)
はっきり言葉で理由を伝えてから
「危ないから 動くなよ」と言ってビンタしていた。

下のふたりは…
小学5年♂と6年♀のとき
「そういえばお前等殴ったことなかったな?」
「殴られたぐらいで
 牛耳られるようになったら大変だから
   いっぱつ 思いっきりビンタしてやるよ♪」
…と言ったら
姉の方は「イヤだ!」
弟は素直に「ウン!」と言ったので
「歯食いしばれ!」と言って…
思い切りホッペタを ビシッとやったら
姉が 一言。
「トーちゃん…ヒドイ!!!」

それ以来 だれも 殴ってない♪…だっちゃ♪
(いまは…怖くて殴れない  …残念笑)  

2007年08月26日 18時27分05秒  こころまで きずつかないで そう祈る♪

めも:mixi書き込みコメント
2007年08月26日18:23 雲 | 削除

>ガースーさん:おひさぁー…だっちゃ♪

  >そんな自分が情けないけど
  >少しだけ誇りに思う

 ん〜ん …たしかに! 共感だっちゃ♪



↓むかし書いた詩を思い出しました…だっちゃ♪



きず        …1990/8/28/日→2007/8/26/日


映画「典子はいま」を 観た

障害ということばがある  …傷害ではない
さまたげ …だろうか?  なんの …?

「 生きること 」の さまたげだろうか

典子の こころは 傷ついてはいない

典子のこころは ぼくなんかより

よっぽど 強そうに見える
…もしかしたら 「からだ」も…

 「風の詩」の星野富弘さんも… 「ケニー」も…
 「五体不満足」の 乙武さんも…

スクリーンに 文字に 絵に
映し出された こころの きらめき

みんな おなじ…ひと …なんだと 俺もおもう

・・・・・・・・・・・・

きずつかない 勇気と覚悟
それが もうひとつの… いきるちから

社会に… ひとに… きずつかないこと

そして 

社会や ひとを きずつけないこと

このふたつが ひととしての約束

・・・・・・・・・・・・・

だれひとり ひとを きずつけないでほしい

だれひとり ひとに きずつかないでほしい

・・・・・・・・・・・・・

これが わたしの いのり


。。。。。。。。。。。。

   


 ガースーさん2007年08月26日08:09 誇り

・・・・・・・・・・・・
人を愛し 人を傷つけ
人に愛され 傷つけられて
やがて人は大きくなって
誰よりも 優しくなれる

人をだます事を覚えて
人にだまされながら生きていく
そんな自分が情けないけど
少しだけ誇りに思う
・・・・・・・・・・・・・・by?

↑うんうん。正しくそう感じた。
なんてか誇りって割と大切よね
人間何かしら芯みたいなのがないとフニャフニャになっちゃう気がするからさ。

何を1番に思ってるかって凄く大事だと思う
それってやっぱりその人の魅力だと思うからさ

最近切実に思いました。はぃ。


。。。。。。。。。。。。。。。。。

2007年08月26日 08時29分15秒  天然の アホでもいいさ 正直に♪

めも:mixi日記より
2007年08月24日05:57 叱られて…2 正直2
akiu 雲

「IQ=60」

…小学校のころ…1

小学校の頃も…叱られた思い出は少ない。
小2のころ たしか遅刻の常習犯で叱られてた
小3のころは それに 忘れ物が 加わった。

忘れ物ばかりする俺に 困った先生が
最初…「忘れないようにメモしなさい」と 指示した。
それでも なんども メモするのを忘れたので
今度は 隣の席の女子に…
「必ずメモさせるように!」と指示したほどだ。

でも… 結局 家に帰って メモを読むのを忘れる
 …そんな奴だった(笑)
(あの頃は 家でも学校でも いつも
 漫画本の絵を そっくりに描き写すことに
 夢中になっていた。)

そういえば そのころ 先生に叱られたことがあった。
ある日の放課後 先生に呼ばれた。

先生:「この前の知能検査(IQテスト)まじめに書いたの?」

俺 :「はい!」  (…と 正直に応えた。?)

先生:「・・・・」…と 悩んでいる。
   「あなたのIQ=60⇒「魯鈍」なのよ?」

 …なにやら白痴の一歩手前 …
 当時の基準だと 特殊学級レベルらしかった。

 当時 成績は悪くはなかった。
 どちらかと言えば できるほうだったので
 先生も 結果に納得がいかなかったのだろうと思う。

 でも 先生は すんなりと 許しては くれなかった。

先生:「あなたは なんでも
    のんびりしすぎてるからじゃない?」
   「もっと テキパキと速くやらないから こうなるのよ」
   「それに 字も大きすぎるし…」

   …と叱られた。

 …と言うわけで それからしばらく
 放課後 残されて

 「字を小さく書く練習」を させられた。

 当時から なにごとにも すぐ夢中になる性格のオレ。
 2Hの鉛筆を みごとに細くして
 米粒に字が書けるまでになった(笑)

 …おかげで それ以来 大きな字が書けなくなってしまった。

 そんな訳で いまだに

「お前の字は 小さすぎて読みづらい」と…

 みんなに 叱られている …だっちゃ!


。。。。。。。。。。

その時以来

 もしかしたら オレはバカなのじゃないか…
 という思いが 頭を離れない。

 まぁ…「バカ正直」なのは たしかだろうとは思うが …(笑)


。。。。。。。。。。

2007年08月18日 12時13分10秒  過去日記リンク



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