道6 浅草1(1974) 2007年09月17日12:44
akiu 雲 「 道 」6
浅草1. … 木彫のプロ …
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工房のメンバーは さまざまだった。
俺(20歳)よりひとつ年上の Nくんと 横浜のAくん
浅草のYくん 香川のTくん
ふたつ年上が 宮城のS♀さん 秋田のIくん
みっつ上が 高知のTSさん
俺より年下が 鳥取のKくん 横浜のSくん
同年が 武蔵美中退のKS
最年少は高卒したばかりの H♀さん
最年長は30歳ぐらい 牛乳配達をしてるIさん
S女史 M女史も そのぐらいの年齢だったかも
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ん…? これで14名にしかならない???
…前に書いた人数はたぶんマチガイだといま気付いた(笑)
たぶん 募集定員25名で 集まったのは16名ぐらい…だと思う。
あと…2名ぐらい居たような気がするが…
正確には 思い出せません …m(_ _)m
(片付けて…日記見ろっちゅーの!←だっちゃ! 大反省)
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浅草のYくんは なんとも生粋の江戸っ子だった。
なにしろ 江戸木彫の家の三代目だった。
(お爺さんもお父さんも 柴又帝釈天の仕事をしたという)
子供の頃から 鑿を使ってるプロである。
それがまた なんで こんなトコに…???
それが この学校に来た連中が…おおむね
「へんなやつら」であることを 象徴している。
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S女史も すでにプロ並みに
木彫を長くやっているらしかった。
あとで わかったことだが…
この学校は その筋の連中には
あんがい一目置かれている学校だったらしい…?
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そういえば 後に「株式会社…美学校」になったが…
( コレだって十分「変」なのだが…笑 )
あのころは 現代思潮社「美学校」だったのだ。
俺は 未だに よくは知らないが
現代思潮社は「トロツキー全集」とかを出版している
いわば お墨付きの異端派の出版社だったらしい。
したがって そっち系の魅力に惹かれて来た奴も多かった。
いわゆる 文系の 屁理屈好きな連中…だっちゃ♪
(当然 先輩も先生も みんな そんな感じ …笑)
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なにしろ俺は 智恵子抄だの白樺派だのトルストイ派?…(笑)
最初は なんだか あの☆校に入った時みたいに
戸惑っていたような気もする。
いま思うと あの連中の多くが…
「異端のプライド」みたいなものを
もっていたような感じもする。
浅草のYくんも そうした気骨が感じられた。
でも 阿寒湖での徒弟まがいの経験があった俺は
職人気質の彼に 少し親近感を感じていた。
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ある日Yくんが話し掛けてきた。
Y:「おう…おまえ 木彫やってたんだってな!?」
俺:「あぁ…阿寒湖ですこし…」
Y:「追い込みのしごと入ったんで
手ぇ貸してくんねぇーか!? 」
俺:「ウ… ウン…」
…というわけで 浅草のど真ん中
雷門からもすぐ みたいな…
ちょっと裏手に入ったところに
Yくんの家…兼仕事場は あった。
木造の2階建てだったと思う。
一階が 車庫と仕事場。
それに 台所や茶の間などがあったと思う。
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仕事は 一畳分ぐらいある大きなレリーフだった。
「風神」「雷神」セットだったと思う。
下絵を描いて 彫り始めてあった。
Yくんは さっそく
「ココ 2寸落としてくれ」と…指示した。
俺は 例によってオロオロと…「あ…ハイ」と
鑿と玄納を出して 最初の何回か 叩いた。
Y:「お…オイ!」
「おめぇーホントに木彫ってたのか!?」
…それで お仕舞いだった。(笑)
Y:「まぁ…しょうがねぇーや 見てろ…!」
彼の 腕 … 彫りは見事だった。
速い 上手い 美しい…
これぞ プロです …と 見とれる他なかった。
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阿寒湖の親方もすごかったが…
Yくんは 俺とひとつしか 歳がちがわない
そんなに ちがうとは思ってなかったのだ。
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しかし 考えてみれば なにしろ
子供の頃から 10年以上もやってるのだ
大工さんで言ったら もう 棟梁レベルなのだ
半年かじっただけで「やってました」
と言ってしまう…そのこと自体が
こうした仕事を 何ひとつわかっていないことの
証明みたいなものだったのだ。
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